他の人は自分ではない。
自分でやること、体験することに意味があるという禅語です。
頭で理解したこと、学んだこと、それはそれで知らないよりいいことですが
やはり、経験に勝るものはなく、経験から得たものの大きさや説得力は強く
自ら経験することの大切さを感じます。
例えば山登り
それなりに辛く、しんどいことも分かる。登り切った時の爽快感、達成感も想像出来ます。
しかし、真夏の暑い時でも、ある地点からひんやりと空気が変わるあの瞬間
休憩で飲む水のおいしさ、登り切った時のしんどさも吹き飛ぶ爽快感は
実際に山に登らなければ感じることの出来ないものです。
先日わが家に起きた出来事からも、経験することの大切さを感じることがありました。
先日、次女が約束をドタキャンし、連絡すらくれなかったことがあったのですが
翌日長女に会うことがあったので、話すと
なんか、昨日病んでたからなー
と、やはりメンタルが落ちてのドタキャンだったことが分かりました。
少し、モヤモヤが残っていたわたしは
なんで病むことがあるのか分からん。
と愚痴をこぼしてしまいました。
頑張って向き合ってきましたが、まだ駄目なのか
という悲しみがあるから出た言葉でもありますが、やはり理解出来ない部分もあります。
長女も次女も自由に生きています。
自分の思い通りにならないことはあっても、一人で誰に遠慮することもなく生きているのは、家族と日々暮らしている人間には分からないものもあります。
せっかく自由なんだから、もっと前向きにもっと自由に生きればいいのに
と思ってしまいます。
すると長女に
自由に生きてても病むことあるよ
と言われ、やっぱり経験者は理解出来るんだなと思いました。
随分娘たちの気持ちを理解できるようにはなったけど、理解しきれない部分もあります。
本人に直接ぶつけたりはしないけど、受け止めてあげる姿勢が出来ていなければ、態度に出るでしょう。
次女は敏感な子なので、それを感じられてはもっとややこしくなるので、その日は次女と接触を避けました。
だから、長女が理解してあげられること、理解出来ることは
自分には出来ないことなので助かるなと感じました。
自分も経験しているから、分かってあげられる。
そして、冷静にそんな時もあるよー
と言ってくれるので、そういうもんかー
と自分を納得させられることが出来る。
長女の生き辛さも、経験した苦しみ、悲しみも、そこから立ち直る術も、その時の対応も
こうして活かされているのです。
これも長女の学びですね。
<今日の禅語のまとめ>
【他不是吾 た これわれにあらず】
自分にしか出来ないことがある。
他の誰かではダメなこと。
他の誰かでは代わりになれないこと。
自分が経験した苦しみも、悲しみも、喜びも
わたしという人間が経験することで、誰かの役に立てるのでしょう。
不登校も、本人にしか経験できないことで
不登校児の親も、わたしたち親だけが経験することが出来る。
子どもの代わりに不登校になることは出来ませんものね。
でも、ここから何かを学ぶのも、また本人だけです。
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