百雑砕【ひゃくざっさい】

修復・再生不能になるほど、こなごなに砕け散ってしまえば、煩悩はなくなる

ということ。


モヤモヤしている時、なかなか前に進めない時、どうにかなるかも?

という淡い期待が執着となって足を引っ張ります。


どうにもならないと分かれば、諦めて手放すことも出来るでしょう。


諦めて手放すからこそ、新たな道へ進めるのです。

わずかでも希望があるから執着し、手放せないのです。

細かな擦り傷もあるし、そろそろ見栄えも悪くなった、古いお気に入りのグラス。

ものを大切にすることは良いことだけど、お客様には出せなくなってきて、自分用にしたものの、あれだけお気に入りだったのにときめかない。


もう、お別れする時かな~

なんて思っても、やっぱり捨てられない。

そんな時、うっかり落として粉々に割れてしまえば、どうでしょう?


残念な気持ちもあるけれど、これで潔く捨てられる。

今までありがとうと、グラスにお礼を言ってバイバイできますね。


大事なものほど、形がなくなるまで、もうどうにもならない、と諦めがつくまで手放せないものです。



わたしの子育て経験で言うと、次女の不登校を受け入れたことでした。

次女は、不登校と、気分の浮き沈みが激しいこと以外は手の掛からない子でした。


なので、朝も起こすことに手こずったこともなく、その日も自分でいつも通り起きて

身支度をし、家を出る時間にもいつも通り余裕がありました。


しかし、登校時間になっても子ども部屋から降りてこないのです。


この頃にはすでに不登校気味でしたが、試験だけは受けないと留年してしまうので、本人との話し合いの末、試験は頑張って行く。ということになっていたのです。


この日は試験日。

あまりに降りてこないので、子ども部屋に行き

もう、出ないと間に合わないよ?

と、優しく声を掛けたのですが


そんな事、分かってる!!でも、どうしようもないねん!

行かなあかんのは分かってるから、行きたいねん。でも、体が動かへんねん。

と泣いて言うのです。


試験を受けなければ留年確定です。

不登校気味な子ですから、留年すれば退学するでしょう。

この日学校を休むことはそのまま、辞めることを意味していました。


あの瞬間、とても心がざわついたことを今も鮮明に覚えています。

それでも、頑張ったけどもう無理だと判断した次女の気持ちを

わたしは何の迷いもなく、すんなりと受け入れました。


いい意味で諦めがついたのです。


学校なんて行かんでいい。

行かなくても大丈夫。


そう言い続けて来たけど、やっぱり行って欲しいのは親の本音です。

だから、色々と提案して何とか休み休み通ったけど、もう限界を迎えたのでした。


不登校児を抱える親は、毎朝行くか行かないか、それはもうロシアンルーレット並みに緊張します。

そういう意味では、もう行かない。という決断もいい諦めであり、次へのステップのスタートです。


<今日の禅語のまとめ>

【百雑砕 ひゃくざっさい】

修復不能なほど、砕け散ってしまえば、いい意味で諦めがつき次へ進める。


行くか行かないか、決めきれない間は、次にしたいことを探すことも出来ないし

たとえ見つかっても動けません。


大事なものが粉々になるのは辛いこともあるけれど、新しいことへ進むと信じて受け入れられるといいですね。






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