行到水窮處【ゆきてはいたる みずのきわまるところ】

水源を探そうとせず、せせらぎの音と戯れながら、気の向くままに歩いていると水源にたどり着いた。


見つけてやる!どうにかしてやる!と躍起になってもどうにもならないが、なるようになるだろうと力を抜いて自然に任せれば、たどり着くこと。


これは子育てに関わらず、人生においてよく出くわす場面だと思います。

5年前の今日、うちの長女は母になりました。

しかし、今は一人で生きています。


1人家を出、子どもを手放し3年半がたちました。

家出を繰り返し、最後の1年の家出からやっと帰って来て、やっと人並みに幸せになりつつあるとそう思ってきた矢先の出来事でした。


娘の離婚には、さほどダメージはなかったのですが、やはり子どもを手放すという選択へのダメージは大きく


長女との関係を修復して以降、常に彼女を尊重し見守るスタンスでやってきたわたしも、さすがにこの時ばかりは少し食い下がりました。


でも、無駄でした。

彼女は悩みに悩みぬいて、自分の身を切る決断をしたのです。

傍からどう見えようとも、母親がわが子を手放すことは、身を引き裂かれることです。

誰が非難しても、彼女も例外ではありません。


それでも、それを選択した娘の、そんな固い決断の前に、親の意見など届くはずもありません。


子どもと別れた当初はショックのあまり、自分たちだけでも繋がっておいて

娘と孫とのパイプを残しておかないと

と躍起になったこともありますが、叶いませんでした。


そして、わたしは再び彼女を尊重し、見守ることに徹底しました。

誰に何を言われようとも、わたしたち家族だけは味方でいようと。




子どもと別れてすぐ、娘はスマホに残っていた写真を全て消去しました。

手元にあれば、到底生きてはいけなかったのでしょう。


そして、別れた時に決断した通り、子どもに会おうとしません。


そんな長女が先日、次女に


あの子の写真あったら送ってくれへん?

と言って、写真を送ってもらったそうです。


わたしには、やっと顔を見られるようになった。とそう言っていました。


ああ、やっと1歩進んだんだな

そう思いました。


会おうと思えば会えます。彼女にその権利はあるのですから。

でも、今はまだ無理

そう長女は言います。


もし、会いたいから手伝って欲しい

そう言われれば、何でもします。


でも今はその時ではないことは分かっているので、見守るだけです。


今、わたしたちが足掻かなくても

いつか必ず、長女と孫の水源にたどり着くでしょう。


3年半掛かって、写真を見られるまでになったのですから。

それは水源に1歩近づいた証です。


だから、引き続き、二人が水源にたどり着くまでの時間を

この別れて生きる時間を全身で感じて生きていこうと思います。


何より、別れて生きる時間を全身で感じて生きて行くことが

長女自身に一番必要な時間のはずだから。


行到水窮處【ゆきてはいたる みずのきわまるところ】

焦らなくても、躍起にならなくても、必ず水源へはたどり着きます。

だって、水源は必ずあるのですから。


長女と孫が親子であるという、確かな水源が。




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